someone's diary

生活の記録。

風呂場で熱唱する少年は、周囲に配慮できる青年になったのだろうか

下宿を始めてからもう1年も経ってしまったということが本当に信じられないが、1年という時間は人の習慣を変えるのには充分な力がある。

 

 

実家にいたときはしていたことをしなくなったり、していなかったことをするようになったり。

 

 

思いつくだけでも、例えば用を渡すときに必ず座ってするようになったとか、テレビを本当に全く見なくなったとか、朝はオレンジジュースを飲んでそれ以外はお茶か水を飲むようになったとか……まぁ色々ある。

 

 

中でも特に大きいのは、風呂場で歌わなくなったことだ。

 

 

風呂場で歌ったことがある人がどれだけいるのかは分からないが、取り敢えずうちの家族だと歌うのは基本僕だけだった。

 

 

風呂場というのは歌うのに良い環境である。湿度もイイ感じ、音も響く、僕は終いには防水加工した歌詞カードを持ち込んでまでバスルームで歌っていた。

 

 

歌ってる本人は気持ちいいのかもしれないが、周りの人にとってはいい迷惑だ。望まない音というのは、たとえどんなに素晴らしい歌手の歌だろうが、そんなのは全く関係なしに雑音だということを、当時の僕はあまり理解していなかった。

 

 

スーザン・ボイルという歌手が有名になった頃。母は感銘を受けたらしくCDを買ってきていた。

 

ある休日の朝、僕が寝ていると、突如荘厳なるオーケストラの演奏が静寂を破り、スーザン・ボイルはその見事な歌唱力で、僕の安眠を一撃で破壊した。

 

 

それ以来、スーザン・ボイルが苦手である。

 

 

 

これは、音楽の中身とは関係なしに、それを聴く気がない人にとっては単なる雑音だということの一例である。クラシックだとか、そういう音楽は、音圧というか、迫力がすごいので、特にそうかもしれない。隣の部屋から流れてくるアニソンとかもそう。あれは最早テロである。

 

そういう音楽には悪意がないので、余計に腹がたつ。それならデスメタルでも掛けてくれた方が素直に怒れるというものだ。

 

 

これと全く同じことが、風呂場で熱唱する少年にも言える。

 

 

風呂場で歌うのは気持ちが良かったが、ああいう環境で歌っていると、自分は歌が上手いのではないかという気分になってくる。すると、あまり声の大きさを気にしなくなる。そもそも、どれだけ外に音が漏れているのか、分かりようもないので、カラオケにでもいる気分で歌う。

 

 

一回だけ妹が風呂場で歌っているのに出くわしたことがある。風呂場で歌うと、想像以上に外に聞こえるらしい。普通に隣の家にも聞こえそうな勢いだ。非常にうるさい。風呂場で歌うとうるさいのです。

 

 

僕はそれよりも大きな声で歌っていたのは確実であったから、今思うと親がブチ切れなかったのが不思議だ。僕は自分の歌に酔いしれていたかもしれないが、あんなものは周りからすればジャイアンリサイタルであり、雑音であったのだ。

 

 

それから、ボリュームを下げようとしたり、歌うのをやめようとしたのだけど、もはや慣習となってしまっていて結局やめられなかった。

 

 

一人暮らしを始めてから、僕は一度も風呂場で歌っていない。こんな壁の薄いアパートで歌ったらいけないことくらい、僕にも分かる。

 

 

偶に鼻歌を口ずさむ程度。これは、僕が変わったのではなく、環境が変わったからなだけなのだろうか?

 

だとしたら、あと数年後に住む場所が、例えしっかりしたマンションで、立派なユニットバスを備えていたとしても、僕は歌わずに我慢できるかな…?未来に良識を期待したい。