someone's diary

生活の記録。

旧暦と新暦の季節の差異は何故生じたのか

国語を学んでいたときにどうしても腑に落ちなかったことがある。旧暦と新暦では四季の分け方が異なるということだ。

 

 

具体的には、旧暦及び新暦において季節の大まかな区切りは次のようになっている。

 

[旧暦]                                       [新暦]

: 1〜3月                               : 2〜4月
: 4〜6月                               : 5〜7月
: 7〜9月                               : 8〜10月
: 10〜12月                           : 11〜1月  

▲1ヶ月ズレている

 

こうして見ると春夏秋冬という順番は、旧暦から出てくることがよく分かる。旧暦だと月も順番通りに並ぶ。

 

どちらにしても、これは現代教育やメディアによって作られた

: 花開く季節

: 緑豊かな暑い季節

: 葉が紅葉し涼しくなる季節

: 雪降る寒冷な季節

 

というような感覚からすればあまりピンとこない区切り方である。このイメージに照らして考えるならば

: 3〜5月

: 6〜8月

: 9〜11月

: 12〜2月

 

くらいが妥当ではないかと思う。実際、これは気象庁の公式見解と一致する。というより寧ろ、気象学的な季節区分が今はスタンダードとして普及していると言うのが正しい。

 

違和感を感じるのは、数字と気象イメージが僕らの中で強固に結びついているからだ。例えば日本人は12という数字から雪景色を想像するが、オーストラリア人は惜しみなく降り注ぐ日差しを思い浮かべる。重要なのは、何と呼称されるかに関わらず巡り続ける自然のどの時期をなんと呼ぶかは恣意的であるということだ。

 

そこで高校生の僕はこれの延長線上で『なるほど、昔の人と今の人とでは、四季についての感性が違ったから、旧暦と新暦では1ヶ月ずれてるのか』と安直に考えた。きっと昔の人はたとえ凍える寒さで雪が降っていようともそれを春と呼んだのだろう…と。でも、日本人の文化的感覚が、たかが100年余りで大きく変わるとは思えないし、変わったとしてどうしてこんな風にはっきりと差異として現れる?この1ヶ月のズレにはもっと直接的な原因が存在する。

 

 

まず、この1ヶ月のズレが自発的な認識の変化などではなく、何かの原因による明確な周期の中のズレだということを示す例として五節句の1つ、1月7日人日の節句を取り上げてみよう。

 

 

この日は別名七草の節句と言って、春の七草を入れたお粥を食べるのが習慣となっている。雪の間から芽を出した野草を摘んだということだが、気象庁によると月別平均気温は全国的に見て1月が最も低く、その初旬に野草の芽など出るわけがない。実際、今も七草を生産している徳島県阿南市の広報誌"広報あなん"によると、冬の気候条件の厳しさから七草は管理が難しく、苦労して栽培しているのだそうだ。実際に伝承通り野草の七草を使って七草粥を作る為には、七草の節句は冬ではなく春になければならない。即ち、七草の節句を行うためには1月は植物の芽が出るくらいには春でなければならず、旧暦が正しく新暦がおかしいことになる。この点で、新暦の季節区分けに移行するメリットが、伝統行事を執り行う観点から見当たらない。つまり、認識のズレではない。

 

 

この疑問を解決するために、遠回りではあるが次の段階を踏んで話を展開する。

 

 

 

1: 暦は何故必要とされたのか

人類は何故暦を作ろうなどと思ったのだろうか。

 

それは、自然が周期的な性質を持つからである。惑星の自転・公転から生まれるような普遍的に思われる周期性。


ある周期で同じことが起こるなら、それを知ろうとしない手立てはない。未来を予測するために時計と、暦を作らなければならない。

 

必ず決まった周期で起きる現象とは何か。それは太陽の運動、月の満ち欠け、日蝕・月蝕、潮の満ち引きや気象変化など。そして、場所による拘束を受けず、誰もが利用できる対象は、やはり天体であった。人類最初の時計は日時計だったことを思い出せばいい。自然の周期性を発見することなしに時間という概念は生まれてこない。

 

17世紀にヨハネス・ケプラーがティコ・ブラーエの膨大な天体観測記録を元に惑星の楕円軌道を発見し、アイザック・ニュートンが惑星の運動に地上の物体の運動と同様の物理的説明を与える遥か以前から、人類の行なった天体観測は、その力学的メカニズムを解明せずとも、精密さを元にその周期をほぼ完璧に予測することができた。

 

 

それでは、天体観測から得られた周期性を元に、暦にはどのような設計が要求されたのだろうか。

 

これは想像だが、まず、昼と夜が存在するところから、1日という概念が生まれ、これを定義する必要性が生まれる。これは、空を移動する2つの天体—太陽と月の単位周期を利用すれば定義できる。月の満ち欠けの周期からは1ヶ月の概念が生まれる。

 

そして、季節 ──これは日本の四季のみを指すのではない── が存在するところから、1年を定義する必要性が生まれる。これは、季節が一巡するのは1ヶ月をいくつ集めたときかを計算すれば良い。

 

2: 日本の旧暦—太陰太陽暦

日本が明治以前に使用していたものは、月(moon)の満ち欠けと太陽の運動の周期性を利用した太陰太陽暦と呼ばれる暦法である。

 

ざっくりと言ってしまうと月の満ち欠けの周期で日を数え、太陽の運動の周期で季節を数える歴法だ。二つの天体の周期性を使っているわけだが、地球の公転周期は別に月の満ち欠けの周期の整数倍になっているわけではない。月の公転周期は29.5日、一方地球の公転周期は365.242日。すなわち月の満ち欠けを12周期分合わせても354日で、地球の公転の一周期より11日ほど足りなくなってしまう。つまり、三年ほどたつと一か月変わってしまうのだ。これほど大きなずれが生じると月(month)と季節との対応関係がめちゃくちゃになってしまう。これを調整する為に閏月が導入された。なんと、旧暦では二・三年に一回は一年が13ヵ月になった!

 

これによって引き起こされる問題は、例えば給料支払いである。年俸制の場合、労働者は閏月のある年は一か月分余計にタダ働きすることになるし、月給制の場合経営者は一か月分多く給料を支払わなければならない。

 

そうでなくても、閏月を導入することで誤差を調整していく方法は太陽暦に比べて余りにも煩雑で扱いづらいものである。

 

 

 

3: 明治改暦

 

明治5年、時の明治政府は太陰暦太陽暦を廃止し、太陽暦を導入することを発表した。こちらの方法なら4年に一度、1日分の誤差を調整するだけで事足りる。

 

改暦に際しこの発表が年末も迫った11月であったことから、旧暦を使った暦表などの出版物を全てリコールしなければならなかったこと、旧暦に準じた風土風習と新暦とのズレが生じることなどの弊害は確かに存在したようであるが、これに対し、福沢諭吉は著書"改暦弁"で、明治政府の雑な対応に難を示しながらも太陽暦の有用性を説き、採用を援護している。

 

日本の近代化を推し進める立場からすれば、太陰暦は非合理的且つ非経済的な仕組みでしかなかった。列強の植民地支配を免れ近代国家として独立するためには、暦を世界標準に合わせ、近代化の足枷となる経済的不合理は徹底的に取り除かねばならず、情緒の喪失や庶民の犠牲への配慮は二の次三の次だったのだろう。

 

こうした著名人の啓蒙活動もあって太陽暦へ移行に対する国民の理解は短期間である程度進んだようである。

 

したがって、明治5年は1月1日から12月2日までしか存在せず、本来存在するはずだった28日間は消滅した

 

これこそが旧暦と新暦の1ヶ月の誤差の正体である。

 

改暦が発表されたのが明治5年11月9日。当時はインターネットも電話もないのだから、本当に国民が知ったときにはもう11月も終わりかけていたはずだ。多くの人は12月ありきで既に予定を立てていたであろう。そこにきて突然の十二月は消滅しました宣告は国中を戦慄させた。「そんな事急に言われても困る!」

 

元日は普通の日とは違う特別な1日だから、早まろうがなんだろうがしっかり元日として臨まなければならない。当然準備も必要である。きっと『12月に1ヶ月かけてやろうとしていたことを2日でできるわけないだろ!!!』というのが実際の反応だったのではないか。さぞかし大胆な調整が各地で行われたことだろう。

 

したがって、今僕らが元日として認識している1月1日の、寒い冬真っ只中の自然の様子は、旧暦を生きる人々にとっては12月3日だった。そして、彼らにとっての本当の元日は僕らの肌感覚からすれば、2月も頭である。

 

だから、今でも年賀状で迎春などと書くのは、旧暦の感覚からすればよく理解できる。僕らからすれば、『1月1日に迎春っていくらなんでも早すぎないか?』という感覚だが、2月の頭に迎春ならばしっくりくる。旧暦の人にとっては正月と春の暖かな空気の訪れとはスパンが短い。七草粥の問題についても合点がいく。

 

数百年レベルで使用してきたものを別のものに変更し、更にその施行のタイミングも旧暦の1年の末日に合わせなかったとあれば、風土風習と新暦との間に齟齬が生じるのは必然中の必然である。この改暦の強行の背景には、初期明治政府の財政難や、鎖国を解き外交を行うようになったことなどの政治的側面が関係している。おまけにその後も、そうした行事は新暦の同日に行われる(例えば、旧暦の七月七日に行われる七夕は、新暦でも7月7日に催される)ことが多かった。

 

 

4: 価値観の相違

誤差を修正する最後の仕上げに、近世の価値観と現代の価値観との差異を掘り下げていこう。

 

今、季節といえば、冒頭で述べた通り学校教育やメディア、平成の文化の影響を受けた文脈、すなわち気象学上の感覚で捉えられがちである。だが、そもそも季節というもの自体も非常に恣意的なものであり、その証拠に、四季以外にも季節の区分けはいくつか存在する。古来の日本人の季節に関する感覚が現代人より鋭かったことは、彼らが1年間を24の季節に分けて捉えたこと(二十四節気)からも読み取れる(これは太陰暦で生じる最大1ヶ月もの誤差に対処するための苦肉の策であったわけだが)。

 

 

そして、花の満開ではなくつぼみを愛でる様な文化と、それらから演繹される気象変化のピークではなくその初兆に重きをおく、訪れを予感する感性を考慮すると、温度変化や気象条件の変遷に基づいた区分けとは異なる区分けが行われる可能性が高い。だから彼らはまだ肌寒い時期を春と呼んだ。

 

5: 原因と誤差の修正

以上より、旧暦を生きた人々の季節感覚が新暦及び現代人に馴染まない理由は

 

❶明治初期の改暦によって旧暦との間に1ヶ月の誤差が生じた為

 

❷現代人の多くが、気象学上の季節感覚を前提としている為

 

の2点に集約される。

 

従って古典で暦が出てきたときには、まず明治改暦による誤差を、1ヶ月進めることにより修正し、その月が属する新暦での文化的季節属性を気象学的季節属性に変換して肌感覚を想像してやればその雰囲気を凡そ掴むことができる。

 

[例1]

旧暦:  睦月 (一月) 文化上: 春

↓改暦誤差調整 +1ヶ月

新暦: February (2月) 文化上: 春

↓尺度変換

新暦: February (2月) 気象学上: 冬

 

古典の指す一月という一ヶ月間を我々は2月と呼んでおり、最低気温も一桁や氷点下になり得る寒さの厳しい時期であるが、春の訪れに備えて植物が準備を始める季節でもある。

 

[例2]

旧暦: 七月七日 七夕

↓改暦誤差調整 +1ヶ月

新暦: 8月7日 七夕 

 

誤差を調整して本来あるべき位置に七夕を移動してやると、お盆との繋がりが見えてくる。この二つの行事が分断された理由は、お盆は改暦時に8月への移動が行われたのに対し、七夕は7月に据え置かれたためである。"Tanabata"は"棚機"の他に"棚幡"とも書き、こちらの場合は祖先崇拝の為の精霊棚及び目印としての幡を指し、お盆との繋がりが非常に強い意味合いを持つ。

 

 

 

6: 季節とどう向き合うか

日本の風土風習は太陰太陽暦の中で根付いてきた。したがって現在、自然に情緒を感じ、風習を楽しもうとする姿勢からは、本来、旧暦が必要とされる。

 

 

生まれたときからアスファルトで覆われた地面を歩く時間の方が圧倒的に多い僕らは、もはや先天的に歴史的な日本人の感覚を奪われていると言って良い。その代償を払って利便性を、合理性を、近代を手に入れたのがこの国だ。それが間違いだとは到底思わないが、このこともまた事実である。

 

 

古典だから価値があるわけでも、正統性があるわけでもなく、ただ現代人は自然に関する感覚に関して彼等に絶対的に劣っている。

 


都会で空を見上げても星など殆ど見えない。土を踏むことなど殆どなく、画一的に植えられた草木にしか触れることのない環境下で、一体季節の何を感じるというのだろうか。おまけに暦がズレているというのに。

 

ここで必要なのは、それを嘆くことではなく、その差異を理解し、原因を知り、誤差を修正した上で古典的日本人の繊細な美に触れること、及び現状知覚可能な環境に対し真摯に向き合い最大限の観察を行うことだと思う。その第一歩として、ここで日本人に寄り添ってきた旧暦を調べたことは、多少なりとも意義のあることであったのではないだろうかと、7月の風に吹かれながら考えた。